美的価値論ビギナーズガイド - obakeweb
1 何が問われているのか
美学aestheticsというのはその他の判断や態度や経験とは区別される、美的判断・美的態度・美的経験などをターゲットとして、その本性を哲学的に探る分野だが、美的価値はそのなかでも近年とりわけ注目されている主題である。言ってしまえば、これは古代ギリシアから続く美についての哲学の最先端である。本エントリーは、美的価値をめぐる議論において誰がなにを論じているのか、おおざっぱな見取り図を与えようとするものである。また、私がいま取り組んでいるトピックでもあるので、自分の研究を対外的にアピールする意図もある。 美やそれに類する価値たちについて、気になることはたくさんある。ことによると、素朴な仕方で「美とはなにか?」が気になる人の多くは、どこのどれがどう美しいのかを知りたがっているのかもしれない。しかし、美的価値論は「Aは美しく、Bは美しくない」みたいなことを教えてくれるわけではない。個別の対象が持つ価値を語るのは批評の仕事である。哲学的美学はもっと根本的なレベルで、文字通り「美とはなにか?」を考える。
全員がその方針に賛同しているわけではないにせよ、まずはドミニク・マカイヴァー・ロペスによって導入された区別、すなわち線引きの問いと規範的問いを踏まえておくのが助けになるだろう(Lopes 2018)。ロペスによれば、「美的価値とはなにか」というのはふたつの問いからなる複合的な問いなのだ。 1.1 線引きの問い:アイテムxに美的価値Vがあるのは、xに__な価値があるときかつそのときに限られる。
線引きの問い(美的問い、とも呼ばれる)は、「美的価値はなにゆえ美的なのか」という問いに要約される。世の中には良いものがたくさんあるが、どれがなにゆえ美的に良いのか。求められているのは、美的なものの特徴づけであり、非美的なものとの区別である。 線引きの問いは美学という学問の出発であり、長らく探求の中心に位置づけられてきた。古典的な見解として、美的なものは内的感官によって捉えられる(ハチソン)、漠然と認識される(バウムガルテン)、無関心的に判断される(カント)、さらなる目的なく楽しまれる(美的態度論)、ルールに支配されていない(シブリー)など。より現代的な見解として、美的経験とはそれ自体のために注意を向ける経験である(ステッカー)、低次性質から高次性質が創発する様に注意を向ける経験である(レヴィンソン)、形式や美的質を内容としている(キャロル)、評価することへの快である(ウォルトン)、分散的な注意を向ける経験である(ナナイ)などなど。詳しい議論はロバート・ステッカー『分析美学入門』の3〜4章を参照。 線引き問いに関連して言及しておくべきなのは、美的価値と芸術的価値の関係だろう。伝統的にはこのふたつの概念ははっきり区別されてこなかったが、傾向として、21世紀の論者はより慎重な言葉遣いを採用するようになっている。芸術的価値は美的価値だけでなくさまざまな価値からなる広いカテゴリーであり(Stecker 2019)、美的価値は芸術作品に限らず自然物や人工物でも持ちうる広範な価値である(環境美学や日常美学)。 1.2 規範的問い:〈アイテムxには美的価値Vがある〉が事実ならば、xに対して__という反応をする理由がある。なぜなら、__。
さて、美しさやかわいさといった美的価値もまた価値なのだとすれば、それらがどのような反応になにゆえ理由を与えるのか気になるところだ。美しい絵画やかわいい犬があるとして、だからなんなのか。それらはどういう仕方で、私が気にかけるようなもの、私にとって考慮すべき事項となっているのか。テクニカルに言えば、美的価値はどのような理由付与性・生成性を、どのような源泉を通して持つのか。
2 どんな反応に理由を理由を与えるのか
伝統的
現代美学では実践的転回といえるような変化を遂げつつある。
実践的転回がラディカルなのは、線引きの問いに対する古典的な答えと真っ向から対立しているからだ。それによれば、美的価値は行為を動機づけないからこそ美的な価値なのである。なにかしてやろうという気を起こさず、ただうっとりと漂う経験こそが美的な経験だとされてきたわけだが、〈美的価値は行為の理由を与える〉という見解はこれを全面否定している。ゆえに、美的行為論の反対派は、線引きの問いの重要性を強調し、独特な仕方で美的と言える行為なんてないと主張することになる。対して美的行為論の推進派は、いや、ちゃんと美的な行為があるのだ!と言ったり、場合によっては美的かどうかを単に気にかけないことを選ぶ。反対派は、気にかけないならそれはもう美学じゃないと非難する……といった具合だ。
3 なにゆえ理由を与えるのか
アイテムxに美的価値Vがあるのは、xが美的な快楽を与えるおかげである。
誰しも、快楽を最大化する理由がある。
美的快楽主義は規範的問いに答える。美しい絵画は快楽を与えるからこそ美しいのであり、誰しも快楽を追求する理由があるので、その美しい絵画を追求する理由があるのだ。まずそれを選んで鑑賞する理由があり、加えて利他的な快楽の最大化を認めるならば、他の人のためにその絵画を促進する(紹介したり展示したり修復する)理由がある。
美的価値の客観性を担保することが課題。
快楽主義者にとってポピュラーな戦略のひとつは、ある種の理想的な主体(真なる判定者、理想的批評家)を設定し、この主体に快楽を与える能力でもって客観的な美的価値を論じるというものだ。Newjeansとワーグナーのどちらが美的により良いかは原理的に決定可能であり、より価値が小さい方に引き寄せられてしまうのは趣味が洗練されていないからだ。
この立場に対してはエリート主義への反感がある。
現在、美的快楽主義はさまざまな角度から批判されまくっており、そのすべてを紹介することはできない。そのなかには、前述したエリート主義の問題に加え、美的に良いものを代替可能にしてしまう(シェリー)、社会的側面を説明できない(ロペス)などが含まれる。とにかく、美的快楽主義が街で唯一のゲームではないことは、今日おおむね認められつつある。
3.2 実践的アプローチ(ロペス)
美的理由の源泉は美的実践にある。
ネットワーク理論のエッセンス
美的価値は、いろんな活動に従事する専門家たち(美的エキスパート)が、分業的にそれぞれの達成を目指す社会実践に組み込まれている。芸術家ならうまく作ろうとするし、編集者ならうまくまとめようとする。そして、彼らがそれぞれの能力を発揮し、それぞれのパートをうまくこなしたかどうか、すなわち達成を収めたかどうかは、然るべき美的価値事実に然るべき反応をしたかどうかによって決まる。インテリアデザイナーは、ある壁紙のエレガンスに反応し、それをある仕方で配置することによって、インテリアデザイナーとしての達成を収める。このような描像に、ロペスは次のような原則を添える。
・誰しも、達成をおさめる理由がある。
快楽を追求する理由がそれ以上説明するまでもないのと同様、達成を追求する理由もそれ以上の説明を必要としない。その他の条件が等しいときには、雑にやって失敗するより、うまくやって成功する理由があるのだ。合わせて、ネットワーク理論は規範的問いに答える。美しい絵画に対し、ある行為φによって反応することが達成としてカウントされるような行為者は、自ずとφを実行する理由があるのだ。そうすることが行為者に快楽をもたらすかどうかは、ロペスによれば副次的で偶然的な事柄である(もちろん、快楽によって活動が促進されることはあるにせよ)。
美的快楽主義とは異なり、ネットワーク理論は「誰しも〜」をスコープとした美的理由論にはなっていない。物理的には同一のアイテムでも、どのような美的価値を持ち、誰にどんな美的行為の理由を与えるのかは、それが組み込まれた実践次第なのである。ざっくりまとめるなら、そこでは達成を目指す行為者たちと、そのタスクとしての美的に良い・悪いアイテムたちからなる領域として、美的生活が描き出される。